紀元前533年(きげんぜん533ねん)は、西暦(ローマ暦)による年。紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元221年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前533年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
- 干支 : 戊辰
- 日本
- 皇紀128年
- 安寧天皇16年
- 中国
- 周 - 景王12年
- 魯 - 昭公9年
- 斉 - 景公15年
- 晋 - 平公25年
- 秦 - 哀公4年
- 楚 - 霊王8年
- 宋 - 平公43年
- 衛 - 霊公2年
- 陳 - 恵公元年
- 蔡 - 霊侯10年
- 曹 - 武公22年
- 鄭 - 簡公33年
- 燕 - 悼公3年
- 呉 - 余祭15年
- 朝鮮
- 檀紀1801年
- ベトナム :
- 仏滅紀元 : 12年
- ユダヤ暦 : 3228年 - 3229年
できごと
中国
- 楚の霊王が魯の叔弓・宋の華亥・鄭の游吉・衛の趙黶らと陳で会合した。
- 楚の公子弃疾が許を葉から城父に移転させた。
- 周の甘邑大夫の襄が晋の閻嘉と閻の田土を争い、晋の梁丙・張趯が陰戎を率いて潁を攻撃した。周の景王は詹桓伯を晋に派遣して、戎を動員したことを非難した。晋の韓起(韓宣子)は羊舌肸(叔向)の意見を容れて、閻の田土を周に贈り、潁で得た捕虜を送還した。景王は賓滑に甘邑大夫の襄を逮捕させ、その事情を晋に説明させると、晋は賓滑を礼遇して帰国させた。
- 陳で火災があった。
- 晋の荀盈が妻を迎えに斉に行き、帰国する途中に死去した。その葬儀がおこなわれないうちに、晋の平公が酒宴を催し、音楽を鳴らしたので、膳宰の屠蒯がこれを諫めた。
- 魯の仲孫玃(孟僖子)が斉に赴いた。
誕生
死去
脚注

![[特設サイト]【ビジュアル版】世界の歴史 大年表 創元社](https://www.sogensha.co.jp/special/sekaino-rekishi/images/gamen03_sp.jpg)


